興味深い分類

マンキュー教授の分類(経済コラムマガジン08/10/6)
物事をスッパリと分類することはあまりよろしくないことなのですが、とても興味深い分類です。

ケインズ派の思想:エンジニアの発想
フリードマン派の思想:科学者の発想

納得です。ケインズの発想は、『とりあえずその場しのぎでいいから、現実に即して国がなんかやれよ』なのですが、フリードマン派は公理の積み重ねによる真理の追究です。前者はどうしても大きな政府に行き着きますし、後者は狂信的な小さな政府論者になります。
世間では、どうしても『抜本的な解決』が望まれますので後者のほうが好かれるでしょう。また、若い人は観念に染まりやすいので、後者を支持する可能性が高いです。
私は、幸か不幸か現実的なエンジニア気質ですので、前者の発想こそが現実に対抗する術であると思っています。
だいたい、エンジニアなんてカタカナで書くとカッコよさそうですが、やっていることは『丸くて四角くて三角のもんを今すぐ作れ!』という無茶な要求にこたえる職業です。納期やら利害の対立する境界条件を満たしていくと、どうしても『なんとなく丸くて、見ようによっては四角に見えて、遠目から三角に見えなくもないモノ』を作ってしのぐことになります。まさに『その場しのぎ』の美学こそがエンジニアリングの本質です。はやぶさなんて、まさにこの思想を体現しています。
さて、経済を考えるにあたって科学者であるべきかエンジニアであるべきか?フリードマンの主張する内容も、科学的には非常に興味深いことですが、それを現実の経済にそのまま持ってこようとするのはムチャだと思います。
財政出動なんかやった日には、『その場しのぎの政策に過ぎない!』と批判されるのが目に見えています。そのときは堂々と『その場しのぎで何が悪い。それが現実だ』と胸を張って言ってやりましょう。間違いなく、四方八方から袋たたきにされますがね。


構造改革派の常套手段(経済コラムマガジン04/11/22)

ベルナー氏は、経済学は、帰納法的、つまり現実の経済の動きから一般的な法則性を導き出すべきものであるが、ニュークラシカルの経済学者やエコノミストは演繹法の手法を採っていると指摘している。演繹法では、疑う余地のない公理というものから出発する。総需要と総供給は常に均衡しており、生産環境は完全雇用の元で行なわれている。パラメータである価格、賃金、金利は十分伸縮性があり、例え不均衡が発生しても、パラメータが動いて均衡状態に復元すると頭の中で考える。

また違う人の分類ですが、似たようなことを言ってますね。
物理学や生物学の分野においても、『細かく裁断していって最小単位がわかれば、それの重ねあわせですべてが分かる!』というのがちょい昔の科学の流れでした。でも、『あれれー?細胞重ね合わせても生命は生まれんわ』ということに気がついて、創発や複雑系の理論が発展しました(80年代後半くらい?)。当然、究極の単位を探す理論も発展してますが、逆に帰納的に全体を捉えることも重要視されています。経済学なんて、生まれて100年程度しかたっていない屁のような理屈ですので、まだまだ発展していくのでしょうね。というか、なんだかんだで行き当たりばったりの政策をしていた江戸幕府が200年以上持ったので、実はその場しのぎが大事なんじゃないかと思う今日この頃。
そして、帰納と演繹の使い分けがいまだにうろ覚え。たぶん、昔のエントリで反対で書いているわ。数学的帰納法という単語がよくないよな!演繹法の癖して!


今週のお題「最近、ハマっていること」
というわけで、経済学の本をいくつか読むことです。
きっかけが、羽月莉音の帝国というのが非常に私らしくはある。

羽月莉音の帝国 (ガガガ文庫)

羽月莉音の帝国 (ガガガ文庫)


ジョン・メイナード・ケインズ - アンサイクロペディア

彼の理論を大まかに示す

   国「うわ〜ん、みんなが失業しちゃうよ〜」
ケインズ「じゃあお前が雇ってやれよ。」
   国「うわ〜ん、みんなが物を買ってくれないよ〜」
ケインズ「じゃあお前が買えよ。」
   国「うわ〜ん、銀行がみんなにお金を貸してくれないよ〜」
ケインズ「じゃあお前が貸せよ。」

要は国に「お前もなんかやれよ」と、良識ある行動を求めただけなのだが、これが古典派と名乗る放置萌えキチガイの逆鱗に触れた。

彼等は「放置プレイこそ至上! だんだん気持ち良くなってくる!」と強弁したが、「普通は気持ち良くなる前に死ぬほど不愉快になるだろ。もっといたわってやれよ」とケインズが反論すると変態共は自分達の性癖を他人に押し付けていた事を恥じ、反省した。ただし、己の非を認めるのに数年かかっている。

現実的だなぁ。