そんなにも不自由なのか?

伊東豊雄氏にプリツカー賞、「革新的な建築を実現」
まだ取っていなかったのかと思いましたが。個人的には何とも釈然としないですわ。

建築は様々な社会的制約に縛られている。その不自由さから少しでも解放されると、もっと居心地の良い建築ができると考えてつくり続けてきた。しかし、1つの作品が完成すると自分の至らなさを痛感し、次のプロジェクトに挑戦するエネルギーとなる。だから今後も自分の建築スタイルを固定することもないし、作品に満足することもないだろう」

建築家といわれる文化人の方々と私が相いれないところです。どうも彼らは、社会的な制約があるから良い建築ができないと思っている節があります。私に言わせれば、それは無能なだけでやり方はいくらでもあります。手段を選ばなければですが。なぜにリベラルな方々は社会のシステムをこうも毛嫌いするのでしょうか?個人的には、社会のシステムなんて建築を規定する境界条件の一つであって、条件の一つ一つを吟味して変なところは直していけばよいと思うのです。
社会システムは、過去の先人が勢いで決めて現代では通用しないものもありますし、根拠は明確ではないものの運用の面では特に大きな問題のないものもあります。ベースシア0.2なんて後者の好例かと思います。
構造設計で言えば、90%の人間が適合性判定のせいで設計できないとか文句を言っています。私も昔はその論調でしたが、文句を言っているセンセイ方の馬鹿げた設計の数々を見てきて心を入れ替えました。文句言って勉強してないやつは無能です。適判で変なのもいっぱいいますが、その程度はクリアする能力を身に着けた方がよほど生産的です。あんなものはくだらないテクニックの類ですので。

とかいうことを言うと、正義の味方から大顰蹙を買うのが目に見えます。うーん。これから先も社会復帰は難しそうですな。


で、社会システムを敵視する姿勢は何も建築家だけではないのです。新作を発表した村上春樹氏。彼のスピーチも同じ論調だったのです。

。そして「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」と、イスラエル軍によって1000人以上のガザ市民が命を落としたことをイスラエルのペレス大統領の面前で批判した。さらに「私たちはみな国籍や人種・宗教を超えてまず人間であり、『システム』という名の壁に直面する壊れやすい卵なのです」と語った[17][18] [19] [20]。スピーチの途中からペレス大統領の顔はこわばってきたという [21]。

私は民主主義とか人権があまり好きではない体制側の人間なので、こういうスピーチもどうかと思います。
頭のいい人はシステムとか仕組みを批判しますが、それ一辺倒はちょっと違うんじゃないの?


これで思い出したのが、山本学治氏のエッセイ。50年近く前のものですが、こちらの方がしっくりきます。一部抜粋。

現代建築論 (1968年) (井上新書)

現代建築論 (1968年) (井上新書)

(前略)
私はそれを見つめながら、「凧を飛翔させるのも糸であり、凧の飛翔を妨げるのも糸である」という言葉を思い出している。
(中略)
けれども私らは知らない。現在の日本の建築は、その糸を切ろうとしてうずうずしている。この糸を断ち切らねば高い自由な飛翔ができないと、自分らを大地に結ぶ糸をうらめしく見つめて身もだえする。私らはよりたかく、一番高く、飛翔する凧にあこがれながら、電線にぶら下がる自由を求めている。
いつの時代においても価値ある建築芸術は、1本の糸によってその時代の人間生活全体に結び付けられており、それはちょうど、子供の手に掴まれた糸がするすると伸びて凧が上がるように、それを大地に引いている糸の緊張によって芸術の世界に飛翔したのである。それは建築芸術の抽象的な自由に対しては制約となりながら、逆にまたそれだからこそ、一つの創造的な芸術作品としてのバランスを長く保持する糸でもあった。

私にとっての糸は、重力に代表される自然法則と、各種設計指針に代表される過去のエンジニアリングの蓄積と、社会状況を反映した架構計画でしょうか。これらの糸を持たない人はどうするんでしょうね?最終的には、絶対に否定できない数学や幾何学になってしまうのでしょうか?そこに挑戦したのが磯崎新氏だと思います。
今一つ、これらのシステムを取っ払った時の思想が見えないという点が、私は非常にしっくりこないのです。